ボートピープル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ハイチからのボートピープル

ボートピープル英語: boat people)とは、紛争・圧政などの下にある地から、漁船ヨットなどの小船に乗り、難民(経済・政治)となって外国へ逃げ出した人々である。

朝鮮民主主義人民共和国大韓民国中華人民共和国キューバベトナム戦争以降の南ベトナムアルバニアモロッコなどで発生し、香港アメリカ合衆国カナダタイインドネシアオーストラリア日本イタリアスペインなどへ脱出している。

戦争、人種的対立、旧共産圏からの政治的迫害、社会主義思想を嫌う人々の他、経済的貧窮を逃れ新天地を求めようと脱出する人々などがいた。また、日本への例として、朝鮮半島からは、戦前・戦後の出稼ぎ、朝鮮戦争や弾圧を逃れるための密航があった。

犠牲[編集]

古い小型船舶に多数の難民が乗船するなどして、船内の環境は劣悪だった。水・食糧の奪い合い、死体を食べたり[1]海賊による略奪・襲撃にあったり、サメシャチなどの肉食性の海棲大型動物に襲われたりもした。

船に公海上での方向指示機能が無いことも多く、海難により多数の犠牲者が出ることもある。

南シナ海上では、タイの海賊や不良漁民によって金品を狙った強盗が行われ、時には強姦殺人も起こった。タイの海賊は、ボートピープルが財産として持ち出した宝石貴金属などをターゲットとした。1981年にベトナムを離れた避難民のうち、7割以上がタイの海賊に一度は遭遇したともいわれる。

朝鮮半島からのボートピープル[編集]

第二次世界大戦前から戦後にかけ、朝鮮半島からは多くの密航が行われ、密航組織や密航者の摘発が頻繁に行われた。1934年、朝鮮人の移入により治安や失業率が悪化したため、朝鮮人の移入を阻止するために朝鮮、満洲の開発を行うとともに密航の取り締まりを強化するための「朝鮮人移住対策ノ件」を閣議決定した。

1938年末には、摘発された密航朝鮮人180人が強制送還されている[2]。1939年1月には300人の密航朝鮮人が強制送還された[3]。2月には密航朝鮮人128人が一網打尽に逮捕されている[4]。3月には250余名の朝鮮人を強制送還している[5]。このように余りに密航が多いため1939年春から日本内地への渡航の取り締まりを緩和するようになったが、6月22日までに日本内地への渡航証明下付出願者は40,485人に上り、漫然渡航者として19,110人が論旨され、2,000人の密航者が摘発されている[6]。また、朝鮮人のなかには渡航証明書を偽造して売りさばき巨利を貪るものもいた[7]。第二次世界大戦中にも密航者は増加し、警察による摘発も行われていた[8]。 こうした背景には当時、内地と朝鮮半島との賃金格差が大きかった事が挙げられる。

第二次世界大戦後、北朝鮮の共産化、朝鮮戦争の混乱、済州島四・三事件の弾圧は、日本への難民/密航者を大量に生んだ[9]。済州島四・三事件に続く麗水・順天事件の際にも、日本への密航者が生み出された[10]。済州島出自の朝鮮人は大阪市生野区を中心に9万人以上になる[11]

マルハン韓昌祐会長[12]や作家のキム・ギルホなどが、密航で日本に入国した事を認めている[13]孫正義の父は、一族を連れて1947年に南朝鮮から密航船で日本へ移住した[14]

『朝日新聞』1955年8月18日「65万人(警視庁公安三課調べ)の在日朝鮮人のうち、密入国者が10万人を超えているといわれ、東京入国管理局管内(1都8県)では、この昨年中のべ1000人が密入出国で捕まった。全国ではこのざっと10倍になり、捕まらないのはそのまた数倍に上るだろうという」また、『朝日新聞』1959年6月16日には「密入出国をしたまま登録をしていない朝鮮人がかなりいると見られているが、警視庁は約20万人ともいわれ、実際どのくらいいるかの見方はマチマチだ」また、『朝日新聞』1959年12月15日天声人語「韓国から日本に逃亡してくる者は月平均五、六百人もある。昭和二十一年から昨年末までに密入国でつかまった者が五万二千人、未逮捕一万五千人で、密入国の実数はその数倍とみられる」また、『産経新聞』1950年6月28日には、「終戦後、我国に不法入国した朝鮮人の総延人員は約20万から40万と推定され、在日朝鮮人推定80万人の中の半分をしめているとさえいわれる」という記事が掲載されている。

ベトナムからのボートピープル[編集]

ベトナム戦争では1975年4月30日の「サイゴン陥落」以降、旧ベトナム共和国(南ベトナム)から数多くの難民が国外に亡命した。ボートピープルの多くは都市部出身者、旧南ベトナム政府関係者や旧南ベトナム軍関係者とその家族、資産家、富裕層、華僑華人であった。香港、マカオの難民収容所の7割は中国系ベトナム人であった[15]。中国系のボートピープルが多く出たのは、中国とベトナムの対立でベトナム政府が華僑を排除する政策を打ち出したためである。

1978年、オーストラリアのマッケラー移民相は、ベトナム当局が社会事業の一環として、ベトナム国内の華僑人口を減らすため、難民の大量流出を助長している証拠は十分に揃っているとして、ベトナムを非難した。 オーストラリアは、1975年から1985年の10年間に9万人以上のベトナム難民を受け入れているが、1986年のオーストラリア在住の華僑・華人人口20万人のうちベトナム出身の華僑・華人は最多の39%で[16]、約8万人であった。

1988年には、ペルシャ湾での任務に向かうアメリカ海軍の揚陸艦に食料だけ与えられ救助されず、故障した船で漂流していた難民がフィリピンで救助されるなど、はじめに比べ、国際社会の関心は薄れていく[1]。1980年代に入ると、ボートピープルがベトナムに帰国した場合、国際連合難民高等弁務官事務所から帰国手当てが支払われ、こうした手当てを目的に、第三国を出国する経済難民が増えた。

アメリカ合衆国は、これまで旧南ベトナムから多くの移民を受け入れている[17]。アメリカには、多くの亡命ベトナム人のコミュニティが存在しており、特にリトル・サイゴン  (Little Saigon) というベトナムタウンが有名である。1970年代後期から、第三国に移住したインドシナ系中国人の増加により、フランスやオーストラリア、カナダ、アメリカなどでは、世界有数規模のチャイナタウンが新たに形成されていった。 ニューヨークやロサンゼルスの他、シカゴの北華埠、パリ南部13区、シドニー郊外のカブラマッタなどの大規模なチャイナタウンは1975年以降、海外に移住したインドシナ華僑により形成された。

受け入れ国[編集]

各国の現在までのインドシナ半島3国からの難民受け入れ数は、以下の通りとなっている。

アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 82万3000人
オーストラリアの旗 オーストラリア 13万7000人
カナダの旗 カナダ 13万7000人
フランスの旗 フランス 09万6000人
ドイツの旗 ドイツ 01万9000人
イギリスの旗 イギリス 01万9000人
日本の旗 日本 01万1000人
アイスランドの旗 アイスランド 00万0400人

背景[編集]

社会主義化に伴う資産制限・国有化、また中越戦争による民族的緊張により、1978年前後をピークに、大量の華人が移民もしくはボートピープルとして、ベトナムから国外に流出した。在ベトナム華人人口は、南北で1975年145万人から1987年28.5万人にまで減少しているが、これは統一後111万1000人の華人がボートピープルなどとして、ベトナムからアメリカ合衆国・カナダなど第三国に移住し[18]、26万人が中華人民共和国に帰国したためである。

1975年以前に、南部に居住する華人120万人のうち、110万人はサイゴンに在住し、さらにそのうち70万人はチョロン地区在住であった。中越戦争期には、華人が大量に難民として出国したため、チョロンの華人人口は、1975年の70万人から1978年に10万人にまで激減した[19]

こうした大量のベトナム系中国人が国外に脱出した背景には、中越関係悪化の中、ベトナムの経済や流通の中枢を華僑が押さえていたことに対し、ベトナム社会主義共和国政府が危機感を募らせ、組織的にこれを追放したことがある。ドイモイ以後はベトナムに帰還する華人も増え、華人人口は復調傾向にある。

また、ベトナムでは政府によって、約10万人にのぼる南ベトナム政府及び南ベトナム軍関係者らに、当局への出頭が命ぜられ再教育キャンプに送られ、階級・地位に応じて、それぞれ短いものは数週間、長いものは数年以上をキャンプで過ごした。1992年時点で、10万人のうち9万4000人は釈放されて社会に復帰していたが、残る6000人はまだ再教育キャンプに収容されていた。米越間協議で9万4000人のうち3年間以上収容されていた4万5000人については、本人が希望した場合、アメリカ合衆国が家族とともに受け入れる事に同意した(当時、国内の窮乏と異常な失業率の高さに悩むベトナム側は、アメリカ側へ9万4000人全員とその家族を引き取るよう要求した)[20]

避難ルート[編集]

ボートピープルの多くは、約240km東方の南シナ海の混雑する国際航路に向かった。運が良ければ、貨物船に救助されて、2200km離れた香港に移送された。マレーシア、タイ、フィリピンにたどり着く船もあった。不運な場合、何ヶ月もの間、何度か中華人民共和国の海岸に停泊しつつ、飢えと喉の渇きに耐えながら航海を続けることになり、また、海賊虐殺されたと思われる死体が、周辺国の海岸に漂着することもしばしばあった。国際連合難民高等弁務官事務所は、ボートピープルに対処するために、マレーシア・タイ王国・フィリピン・香港・インドネシアに、難民キャンプを設置した。

1979年7月、香港が無条件で難民を受け入れる「第一収容港」となってから、ベトナムのボートピープルは、圧倒的に香港に向かうようになった。香港では、最終的に20万人以上が受け入れられ、難民は20年以上に渡って、香港の深刻な社会問題(越南船民問題)となった。経済的負担や犯罪の増加、難民による暴動などが、香港人にとって大きなマイナスとなったが、香港政府は始終温和な政策を採っていたため、最終的な決着は2000年まで着くことがなかった。国際連合難民高等弁務官事務所によれば、ベトナムのボートピープルの処理のために、香港は16.1億香港ドルの費用を背負った[21][22]

チュニジアからのボートピープル[編集]

ジャスミン革命で多くの人々がランペドゥーザ島に来た[23]

脚注・参考文献[編集]

  1. ^ a b [BS世界のドキュメンタリー「ボートピープル 漂流の37日間」]
  2. ^ 大阪朝日新聞・南鮮版 1938年12月28日付
  3. ^ 大阪朝日新聞・南鮮版 1939年1月31日付
  4. ^ 大阪朝日新聞・南鮮版 1939年2月2日付『密航朝鮮人を一網打盡』
  5. ^ 大阪朝日新聞・南鮮版 1939年3月17日付『多い密航者 また福岡から大量送還』
  6. ^ 大阪朝日新聞・北鮮版 1939年6月22日付『論旨の渡航者一萬九千餘人』
  7. ^ 大阪朝日新聞・南鮮版 1939年11月21日付『渡航證明書を偽造し 不敵、巨利を博す 惡運つきて遂に捕へらる』
  8. ^ 大阪毎日新聞 1943年6月15日付『内地密航増加 釜山水上署で厳罰』
  9. ^ アジア歴史資料センターリファレンスコード A05020306500「昭和21年度密航朝鮮人取締に要する経費追加予算要求書」
    P2:事由 最近朝鮮人にして密航し北九州及中国西部に上陸する者漸次増加し本年四月中に於て其の総数約一, 〇〇〇名に達し益々増加の傾向にあるばかりでなく密輸出入者も亦漸増しつヽあるを以て聯合軍の指示に従ひ関係県に於ては之が逮捕護送送還を行ひつヽあり 仍て此の経費を必要とする
  10. ^ “【その時の今日】「在日朝鮮人」北送事業が始まる”. 中央日報. (2010年8月23日). https://archive.fo/iVJr 2010年8月27日閲覧。 
  11. ^ 金容権李宗良編『在日韓国朝鮮人-若者からみた意見と思いと考え-』三一書房 1985年
  12. ^ 2005年5月18日テレビ朝日ワイド!スクランブル』で「韓国にいても稼げないので密航して来た」と発言した
  13. ^ 韓国語で小説執筆した在日韓国人作家『朝鮮日報』2006年3月28日
  14. ^ 佐野眞一. 週刊ポスト2011/02/18日号「〈短期集中連載〉あんぽん 孫正義伝(6)」. 小学館. https://web.archive.org/web/20110903184509/http://www.zassi.net/mag_index.php?id=51&issue=29024 
  15. ^ 「インドシナ難民問題と日本」外務省情報文化局 1981年
  16. ^ 「華人月刊」1989年3月
  17. ^ “アメリカ移住計画が新たな段階へ”. VIETJOベトナムニュース. (2006年9月19日). http://www.viet-jo.com/news/politics/060914042904.html 
  18. ^ 若林敬子「中国人口超大国のゆくえ」岩波書店 1994年 著者は厚生省人口問題研究所 地域構造研究室室長
  19. ^ 読売新聞夕刊 1992年9月8日および9月9日
  20. ^ ニール・シーハン『ハノイ&サイゴン物語』P156
  21. ^ 《追回聯合國難民事務高級專員署尚欠的暫支款項問題》,1998年,香港立法會,香港
  22. ^ Wong, David (1983年2月3日). “Cost of housing Viet refugees expected to soar” (PDF). The Standard (Hong Kong). http://sunzi1.lib.hku.hk/newspaper/view/02_09.05/127515.pdf 
  23. ^ http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2011021300023

関連項目[編集]

外部リンク[編集]