古賀浩靖

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こが ひろやす
古賀 浩靖
生誕 (1947-08-15) 1947年8月15日(76歳)
日本の旗 日本北海道滝川市字北滝の川862番地
国籍 日本の旗 日本
別名 荒地浩靖
民族 日本人
出身校 神奈川大学法学部
職業 政治活動家、宗教家、神主
活動期間 1968年 – 1970年
団体 民兵組織「楯の会
肩書き 「楯の会」二期生、第5班副班長
敵対者 反日主義共産主義
宗教 生長の家
罪名 三島事件における監禁致傷暴力行為等処罰に関する法律違反、傷害職務強要嘱託殺人
配偶者 谷口佳代子
古賀幸利(父)、幸(母)
家族 谷口清超(義父)、谷口恵美子(義母)
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古賀 浩靖(こが ひろやす、1947年(昭和22年)8月15日 - )は、日本政治活動家宗教家三島由紀夫が結成した「楯の会」の2期生で第5班副班長。1970年(昭和45年)11月25日の三島事件に参加し、三島由紀夫森田必勝の割腹自殺の介錯をした[1]仮釈放後、谷口清超の長女の佳代子と結婚[2][3]荒地浩靖と改姓し[4]生長の家札幌教区の教化部長となった[5][6][7]

経歴[編集]

生い立ち[編集]

1947年(昭和22年)8月15日、父・幸利と母・幸の次男として北海道滝川市字北滝の川862番地に誕生[8][1]。父・幸利は元小学校校長で、宗教法人生長の家」の本部講師をしていた[1]。浩靖は、二男五女の末っ子であった[1]

高校時代に、「生長の家」練成会に入り、合宿生活をしたこともあった古賀は、小・中学校の授業では教わることのなかった「真の人間の存在価値」に触れ、日本の歴史の生命と自分の生命の一体化を知り、人生観が変化していった[9]。また、菅原裕の『日本国憲法失効論』、憲法調査会の『制憲のいきさつ』などを読み、現憲法破棄のために一生を賭けることを決意した[9][10]

神奈川大学法学部に進学[編集]

1966年(昭和41年)3月、北海道札幌西高等学校卒業。憲法改正論を唱える教授がいることを知り、神奈川大学法学部を受験し入学した。当時の神奈川大学にはドイツ法を専攻し純粋法学ハンス・ケルゼンに影響を受け、カール・シュミット研究で知られる黒田覚がいた。黒田は現憲法の誤りを指摘するが、古賀は「頭の中のこと」だけだと感じ失望した[10]

戦後日本の在り方に疑問を持った古賀は日本建国の精神・源流を血肉化するため、「日本文化研究会」(日文研)を友人らと共に結成し[9]、「全国学生自治体連絡協議会」(全国学協)で知り合った後輩の、小賀正義工学部)とも一緒に活動した[9][11]

学園紛争第一次羽田闘争で荒れる新左翼の現状に危機を抱いていた浩靖は、三島由紀夫の『憂国』を読み、その主人公に自身の生き方を示された気がし、高校時代の同級生にも読むように手紙を書いた[10]。この頃、住居は東京都町田市金井町に両親、12歳上の姉・綏子、9歳上の兄・国靖と共に住んでいた[1]

楯の会へ[編集]

1968年(昭和43年)7月、大学の後輩で同じ全国学協の伊藤邦典(「祖国防衛隊」〈のち楯の会〉1期生)から誘われ、三島由紀夫が引率する第2回の自衛隊体験入隊に参加し、7月25日から8月23日まで陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地軍事訓練を受けた[12][11]。同じ回には、やはり伊藤から紹介を受けた小賀正義もいた[12]

楯の会の2期生となった古賀は、1969年(昭和44年)春頃から第5班の副班長になった(班長は小賀)[1]1970年(昭和45年)3月に大学を卒業した古賀は、楯の会の活動と並行して、司法試験の受験勉強を始めた[1]

1970年(昭和45年)9月1日、「憲法改正草案研究会」の帰り、古賀は、小賀正義と第2代学生長の森田必勝(1期生、第1班班長)から西新宿3丁目の深夜スナック「パークサイド」に誘われ、小賀から、「三島先生と生死をともにできるか」と問われた[1][13]。古賀は、詳細はまだ解らなかったが、いよいよ生命を賭けて決起するのだと思い、楯の会に入会以来、日本を覚醒するため生命を捨てる覚悟でいたため、その問いに驚くことはなかった[13]。森田にも、「市ヶ谷部隊の中で行動する」「浩ちゃん、命をくれないか」と頼まれた古賀は、「お願いします」と頭を下げて承諾し、同志に加えてくれたことを感謝した[13][14][15]

9月9日、古賀は三島から銀座4丁目のフランス料理店に招かれ、決行日などの具体的な計画案(11月25日の例会後のヘリポート訓練中に32連隊長・宮田朋幸1佐を人質にする)を聞かされた[1][13]。三島は、「自衛隊員中に行動を共にするものがでることは不可能だろう、いずれにしても、自分は死ななければならない」[1]、「ここまで来たら、地獄の三丁目だよ」と言った[13]

10月初め、古賀は死ぬ前に故郷の北海道の山河を今一度見ておきたいと思った[13]。そのことを三島に話すと、「旅費の半額を出させてくれ」と、北海道に旅立つ古賀のために1万円をくれた[13]三島事件の前日の11月24日、古賀は両親宛ての手紙に「自分は憲法と刺し違える」と書いた[11]

三島事件当日の行動[編集]

11月24日事件前夜、小川と古賀は、小賀の戸塚1丁目498番地の大早館の下宿に宿泊した。

11月25日、古賀は森田に「起こしてくれ」と頼まれていたため、森田の下宿の廊下にあるピンク電話を鳴らし森田を起こす。 市ヶ谷駐屯地総監室で、総監が隙を見せた際に、総監益田兼利陸将を小川、古賀が細引やロープで総監を椅子に縛りつけて拘束し、室内に突入する自衛官らに対し、小テーブルや椅子を投げつけ応戦した。

三島由紀夫と森田必勝の介錯[編集]

11月25日、三島が東部方面総監室で割腹自決をし、介錯人の森田が三太刀したがうまくいかなかった[16][17]。森田から、「浩ちゃん頼む」と日本刀“関孫六”軍刀拵えを渡された古賀は、一太刀振るって頸部の皮一枚残すという古式に則って、三島の首を切断した[18]

続いて行われた森田の切腹でも、古賀が一太刀で介錯した[13]。その後、古賀は小賀正義、小川正洋(第7班班長)と共に、益田兼利総監の拘束を解き、自決させないよう最後まで護衛する任務を遂行した[1](詳細は三島事件#経緯を参照)。

三島事件裁判陳述[編集]

「戦後、日本は経済大国になり、物質的には繁栄した反面、精神的には退廃しているのではないかと思う。思想の混迷の中で、個人的享楽、利己的な考えが先に立ち、民主主義の美名で日本人の精神をむしばんでいる。(中略)その傾向をさらに推し進めると、日本の歴史、文化、伝統を破壊する恐れがある。(中略)この状況をつくりだしている悪の根源は、憲法であると思う。現憲法はマッカーサーサーベルの下でつくられたもので、サンフランシスコ条約で形式的に独立したとき、無効宣言をすべきであった」
「現実には、日本にとって非常にむずかしい、重要な時期が、曖昧な、呑気なかたちで過ぎ去ろうとしており、現状維持の生温い状況の中に日本中は、どっぷりとつかって、これが、将来どのような意味を持っているかを深く、真剣に探ることなく過ぎ去ろうとしていたことに、三島先生、森田さんらが憤らざるを得なかったことは確かです」
「狂気、気違い沙汰といわれたかもしれないが、いま生きている日本人だけに呼びかけ、訴えたのではない。三島先生は『自分が考え、考え抜いていまできることはこれなんだ』と言った。最後に話合ったとき、『いまこの日本に何かが起こらなければ、日本は日本として立上がることができないだろう、社会に衝撃を与え、亀裂をつくり、日本人の魂を見せておかなければならない、われわれがつくる亀裂は小さいかもしれないが、やがて大きくなるだろう』と言っていた。先生は後世に託してあの行動をとった」 — 古賀浩靖「裁判陳述」[8][9][11]

三島事件後[編集]

1972年(昭和47年)4月27日、「楯の会事件」裁判の第18回最終公判で、同志の小賀正義、小川正洋と共に古賀に懲役4年の実刑判決が下された[19]。罪名は「監禁致傷暴力行為等処罰ニ関スル法律違反、傷害職務強要嘱託殺人」であった[19]。古賀の父・幸利は、獄中の息子に接見し、「よくやった。天子様のためにやったことだからお前は悪くない」と励ました[20]

1974年(昭和49年)10月に仮釈放[21][22]。古賀は東京でアパート住まいをしながら、国学院神道を学び、鶴見神社神主の資格を取った[23][22]

刑期を終えた3人が、古賀を神主として三島・森田の慰霊を始めた所に、楯の会の元会員が集まり始め、毎年慰霊祭が行われるようになった[23]谷口清超の長女の佳代子[3]と結婚し、谷口の旧姓である「荒地」を継ぎ、荒地浩靖となった[2][4]。「生長の家」の札幌教区の教化部長に就任[5][6][7]

人物像[編集]

  • 神奈川大学では剣道部に所属していた[12]。体格はぶ厚い体躯だが、気負ったところがなく寡黙で、ソフトで穏やかな笑顔が印象的な人柄だという[24][22][4]
  • 三井甲之が歌った「ますらをの かなしきいのち つみかさね つみかさねまもる やまとしまねを」、明治天皇が歌った「国おもふ 道に二つは なかりけり 戦のにはに たつもたたぬも」の歌が好きだった[10]
  • 同じ「コガ」の小賀正義と区別するために、古賀は「フルコガ」、小賀は「チビコガ」というニックネームで呼ばれていた[23]
  • 伊藤邦典(1期生)が、出所後の古賀に会い、「あの事件で、何があなたに残ったか」を訊ねると、古賀はただ掌を上に向けて、三島と森田の首の重さを持つようにしてじっとそれを見詰めていただけだったという[23]
  • 不測の事態に備えて書いた辞世の句は以下のものである[25]
獅子となり となりても 国のため ますらをぶりも のまにまに — 古賀浩靖

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k 「国会を占拠せよ ■第二回公判」(裁判 1972, pp. 59–82)
  2. ^ a b 文藝春秋 編『戦後70年 日本人の証言』文藝春秋〈文春文庫〉、2015年8月4日。ISBN 978-4167904333 
  3. ^ a b 『生長の家三拾年史』 1959, pp. 391–409.
  4. ^ a b c 「著者あとがき『切れない絆』」(火群 2005, pp. 202–209)
  5. ^ a b 「世界の燈台」2008年8月1日・681号”. 立ち上がる札幌教区相愛会 (2008年7月18日). 2023年12月25日閲覧。
  6. ^ a b 真理勉強会”. 生長の家札幌教区青年会のブログ (2006年7月13日). 2023年12月25日閲覧。
  7. ^ a b 生長の家札幌教化部”. 宗教法人 生長の家 公式サイト. 2023年12月25日閲覧。
  8. ^ a b 「春の雪 ■第一回公判」(裁判 1972, pp. 20–59)
  9. ^ a b c d e 「『日本刀は武士の魂』 ■第七回公判」(裁判 1972, pp. 123–150)
  10. ^ a b c d 「武人としての死 ■第九回公判」(裁判 1972, pp. 157–196)
  11. ^ a b c d 「『天皇中心の国家を』■第十五回公判」(裁判 1972, pp. 233–244)
  12. ^ a b c 「第一章 曙」(火群 2005, pp. 9–80)
  13. ^ a b c d e f g h 「『死ぬことはやさしい』■第六回公判」(裁判 1972, pp. 117–122)
  14. ^ 「第七章」(梓 1996, pp. 233–256)
  15. ^ 「第四章 邂逅、そして離別」(保阪 2001, pp. 189–240)
  16. ^ 「国を思う純粋な心に ■第五回公判」(裁判 1972, pp. 109–116)
  17. ^ 「非常の連帯 ■第十六回公判」(裁判 1972, pp. 245–270)
  18. ^ 「第四章 市ヶ谷台にて」(彰彦 2015, pp. 199–230)
  19. ^ a b 「憂国と法理の接点 ■第十八回公判」(裁判 1972, pp. 305–318)
  20. ^ 「監修者あとがき」(火群 2005, pp. 210–215)
  21. ^ 「終章 『三島事件』か『楯の会事件』か」(保阪 2001, pp. 303–322)
  22. ^ a b c 「第四章 取り残された者たち」(村田 2015, pp. 161–222)
  23. ^ a b c d 「第四章 その時、そしてこれから」(火群 2005, pp. 111–188)
  24. ^ 「第三章 惜別の時」(彰彦 2015, pp. 137–198)
  25. ^ 「『散ること花と……』■第三回公判」(裁判 1972, pp. 83–98)

参考文献[編集]

関連項目[編集]