土屋光春

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土屋光春

土屋 光春(つちや みつはる、嘉永元年8月26日1848年9月23日) - 1920年大正9年)11月17日)は、日本武士岡崎藩士)、陸軍軍人階級及び位階勲等功級爵位陸軍大将従二位勲一等功二級男爵

経歴[編集]

嘉永元年(1848年)に岡崎藩士・渡利伝左衛門の四男として生まれる。14歳で岡崎藩士・土屋甚助の養子となり、1870年(明治3年)7月、家督を相続し、本多忠直に支え、文学教授読兼司書一番銃卒分隊長となった。同年11月、藩から3名選抜された中の一人として大阪陸軍兵学校に入る[1]1872年(明治5年)、陸軍少尉任官。その後、佐賀の乱西南戦争を経て日清戦争には大本営参謀として従軍した。

第27旅団長、台湾守備混成第1旅団長、近衛歩兵第1旅団長を歴任し、1902年(明治35年)に陸軍中将に進む。日露戦争に際しては、乃木希典大将率いる第3軍隷下の第11師団長として、旅順攻囲戦に参加。東鶏冠山に師団を率いて攻撃中にロシア軍銃撃により頭部に銃創を受け内地後送。治癒後、1905年(明治38年)に新設の第14師団長として再度満州に渡る。凱旋後、1907年(明治40年)9月に戦功により男爵となる。1908年(明治41年)12月21日、第4師団長となる。1910年(明治43年)8月26日、陸軍大将に進むと同時に後備役編入[2]1915年(大正4年)4月1日に退役した[3]

退役後は郷里に帰り、三河郷友会会長を務めながら愛知県岡崎市明大寺町向山の地で余生を送った[4]

1920年(大正9年)11月17日、病に倒れ死去。72歳没。岡崎市の龍海院に葬られる。1964年(昭和39年)7月1日、岡崎市名誉市民に推挙される[5]

なお長男の土屋光金は海軍中将の後、貴族院議員となった。

栄典[編集]

位階
勲章等
外国勲章佩用允許

脚注[編集]

  1. ^ 『岡崎の人物史』岡崎の人物史編集委員会、1979年1月5日、148頁。 
  2. ^ 『官報』第8156号、明治43年8月27日。
  3. ^ 『官報』第811号、大正4年4月19日。
  4. ^ 『岡崎の人物史』岡崎の人物史編集委員会、1979年1月5日、149頁。 
  5. ^ 『新編 岡崎市史 総集編 20』新編岡崎市史編さん委員会、1993年3月15日、615頁。 
  6. ^ 『官報』第2551号「叙任及辞令」1892年1月4日。
  7. ^ 『官報』第3142号「叙任及辞令」1893年12月18日。
  8. ^ 『官報』第4302号「叙任及辞令」1897年11月1日。
  9. ^ 『官報』第5696号「叙任及辞令」1902年7月1日。
  10. ^ 『官報』第6315号「叙任及辞令」1904年7月19日。
  11. ^ 『官報』第7236号「叙任及辞令」1907年8月12日。
  12. ^ 『官報』第8185号「叙任及辞令」1910年10月1日。
  13. ^ 『官報』第2491号「叙任及辞令」1920年11月19日。
  14. ^ 『官報』第3127号「叙任及辞令」1893年11月30日。
  15. ^ 『官報』第3693号「叙任及辞令」1895年10月19日。
  16. ^ 『官報』第3824号・付録「辞令」1896年4月1日。
  17. ^ 『官報』第5824号「叙任及辞令」1902年12月1日。
  18. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。
  19. ^ 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
  20. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  21. ^ 『官報』第4005号「叙任及辞令」1896年11月2日。

参考文献[編集]

  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
日本の爵位
先代
叙爵
男爵
土屋(光春)家初代
1907年 - 1920年
次代
土屋光金