御前会議

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第1回御前会議(1938年(昭和13年)1月11日)の様子。写真左より軍令部作戦部長近藤信竹少将、軍令部次長嶋田繁太郎中将、海軍大臣米内光政大将、軍令部総長伏見宮博恭王元帥海軍大将、昭和天皇、参謀総長閑院宮載仁親王元帥陸軍大将、陸軍大臣杉山元大将、参謀次長多田駿中将、参謀本部作戦部長下村定少将。

御前会議(ごぜんかいぎ、旧字体御前󠄁會議)とは、明治期から太平洋戦争終結時まで、国家の緊急の重大問題において天皇臨席のもとに元老、主要閣僚首脳が集まって行われた合同会議[1]。ただし法制上には規定はなかった[1]

概要[編集]

日清戦争前の広島大本営での御前会議。 中央 明治天皇、右端から川上操六大山巌伊藤博文、 左端から樺山資紀西郷従道山縣有朋有栖川宮熾仁親王

広義には、官制上天皇親臨が定められていた枢密院会議、また王政復古直後の小御所会議や、天皇臨席の大本営会議なども御前会議といえる。しかし、狭義には、戦争開始終了に関して開かれた、天皇・元老閣僚・軍部首脳の合同会議を指す。

1894年明治27年)に対開戦(日清戦争)を決定したのが最初。以後、三国干渉日露戦争などに際して開催され、1938年昭和13年)以後には日中戦争支那事変)の処理方針、日独伊三国同盟、対米英蘭開戦=真珠湾攻撃による太平洋戦争開戦、太平洋戦争終結などを決定した。

大日本帝国憲法第13条には、天皇が開戦と終戦を決定する事が明記されていたが、例えば「御前会議法」というような法制上の開催根拠がないなど、御前会議の開催は困難であった。また天皇による意思の表明・発動は(天皇自らにその責任が及ぶため)好ましくないとされ、たとえ出席しても一言も発しないことが多かった。

御前会議での決定は、即時でそのまま国家意思の決定となるのでなく、改めてその内容について正式の手続(例えば閣議)の諮問を経てから正式に決定された

構成員[編集]

日中戦争以後の御前会議[編集]

1938年(昭和13年)に復活して以降について記す。

開催日 議題 内閣 昭和天皇の発言等
1
1938年(昭和13年)
1月11日
支那事変処理根本方針[2] 第1次近衛内閣
2
1938年(昭和13年)
11月30日
日支新関係調整方針
3
1940年(昭和15年)
9月19日
日独伊三国同盟条約[3] 第2次近衛内閣
4
1940年(昭和15年)
11月13日
支那事変処理要綱に関する件ほか[4]
5
1941年(昭和16年)
7月2日
情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱[5]
6
1941年(昭和16年)
9月6日
帝国国策遂行要領[6] 第3次近衛内閣 明治天皇御製を詠む形で、対米開戦回避を示唆。
「よもの海 みなはらからと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ」
7
1941年(昭和16年)
11月5日
対米交渉要綱(甲案・乙案)、帝国国策遂行要領[7] 東條内閣
8
1941年(昭和16年)
12月1日
対英米蘭開戦の件[8]
9
1942年(昭和17年)
12月21日
大東亜戦争完遂の為の対支処理根本方針
10
1942年(昭和17年)
12月31日
ガダルカナル島からの撤退と東北部ニューギニアへの作戦重点変換について[9]
11
1943年(昭和18年)
5月31日
大東亜政略指導大綱
12
1943年(昭和18年)
9月30日
今後採るべき戦争指導の大綱ほか
13
[注釈 1]
1944年(昭和19年)
8月19日
小磯内閣
14
1945年(昭和20年)
6月8日
今後採るべき戦争指導の基本大綱 鈴木内閣
15
1945年(昭和20年)
8月10日[注釈 2]
ポツダム宣言受諾の可否について 鈴木貫太郎から乞われる形で宣言受諾の意思表明(いわゆる聖断)。
16
1945年(昭和20年)
8月14日
ポツダム宣言受諾の最終決定 再度、宣言受諾の意思表明(再度の聖断)。

場所[編集]

1944年(昭和19年)の御前会議

御前会議は通常、明治宮殿車寄を入って右側にある「東一の間」などで開催された。しかし終戦直前の2回の御前会議は、「望岳台」近くの地下壕「御文庫附属庫」で行われた。地下10m、部屋の広さは15坪ほどであり、天皇・皇后の寝室・居間のある御文庫[注釈 3]からは90m離れており、地下道でつながっていた。1945年(昭和20年)には、大型爆弾にも耐えられるよう陸軍工兵隊が補強工事を行い[10]、附属庫での初めて枢密院本会議が、1945年(昭和20年)6月2日に開催された[注釈 4]

日英米開戦をめぐって[編集]

1941年(昭和16年)9月6日の第六回御前会議では、前述の通り、昭和天皇は祖父明治天皇御製を冒頭で引用した。この意図について、昭和天皇は1985年(昭和60年)4月15日の記者会見で次のように語った。

「会議の議題の第一議に戦争準備をすることが掲げられ、また、次に平和のための努力となっていましたが、私は平和努力と言うことが第一義になることを望んでいたので、明治天皇の御歌を引用したのです」[11]

天皇は、この前日に近衛文麿首相から帝国国策遂行要領の内奏(事前報告)を受けており、このとき天皇の回想と同様の発言があったと、近衛文麿側の手記にも記録がある[11]

当時陸軍省軍務局高級課員であった石井秋穂は、第一項に戦争、第二項に外交という記述をしたのは自分であると、後にNHKテレビ番組で証言している[12]

会議当日の杉山元陸軍参謀総長のメモ(杉山メモ)にも、平和的外交をするよう、天皇から命ぜられたと記録がある[11]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ この回より、「御前に於ける最高戦争指導会議」の名称で開かれている
  2. ^ 通説では8月9日深夜に始まったとされていたが、『昭和天皇実録』において8月10日0時3分開始と確認された(昭和天皇実録:ポツダム宣言受諾、2・26… 分刻み、克明記録 研究手がかりに 毎日新聞 2014年9月9日)。
  3. ^ 1942年(昭和17年)12月31日竣工。建坪1320m2。当初1t爆弾に耐えられるようコンクリートと砂の3重構造で作られたが、後に6t爆弾に耐えられるよう補強された(『天皇裕仁と東京大空襲』 松浦総三 1994年)。
  4. ^ 枢密院は皇居内に現存する。長く宮内庁音楽隊の練習場所であり補修もされていなかったが、2010年(平成22年)頃から復旧工事計画が進んでいる。

出典[編集]

  1. ^ a b 百科事典マイペディア
  2. ^ アジア歴史資料センター. “支那事変処理根本方針(昭和13年1月11日 御前会議決定)”. 2021年12月21日閲覧。
  3. ^ アジア歴史資料センター. “昭和15年(1940年)9月19日 第3回御前会議(議題:日独伊三国条約)”. 2021年9月27日閲覧。
  4. ^ アジア歴史資料センター. “昭和15年(1940年)11月13日 第4回御前会議(議題:支那事変処理、日満華共同宣言、日華基本条約)”. 2021年9月27日閲覧。
  5. ^ アジア歴史資料センター. “昭和16年(1941年)7月2日 第5回御前会議(議題:帝国国策要綱、南方施策、対英米政策)”. 2021年9月27日閲覧。
  6. ^ アジア歴史資料センター. “昭和16年(1941年)9月6日 第6回御前会議(決定:帝国国策遂行要領、対米英蘭戦準備を概ね10月下旬を目途に完整)”. 2021年9月27日閲覧。
  7. ^ アジア歴史資料センター. “昭和16年(1941年)11月5日 第7回御前会議(議題:対米交渉要綱(甲案・乙案)、帝国国策遂行要領))”. 2021年9月27日閲覧。
  8. ^ アジア歴史資料センター. “昭和16年(1941年)12月1日 第8回御前会議(議題:対米英蘭開戦決定)”. 2021年9月27日閲覧。
  9. ^ 戦史叢書66 1973, p. 26a.
  10. ^ 朽ちた「終戦聖断の場」…皇居「御文庫付属室」公開”. 読売新聞 (2015年8月1日). 2017年11月5日閲覧。
  11. ^ a b c 『陛下、お尋ね申し上げます』 1988 p.366
  12. ^ (テレビ番組)NHKスペシャル『御前会議~太平洋戦争開戦はこうして決められた~』. NHK. (1991年8月15日放映) 

参考文献[編集]

  • 高橋紘『陛下、お尋ね申し上げます 記者会見全記録と人間天皇の軌跡』文藝春秋文春文庫〉、1988年3月。ISBN 978-4167472016 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]