日米追加条約

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日本国米利堅合衆国条約[1]
通称・略称 日米追加条約、下田協約、下田協定
署名 1857年6月17日(安政4年5月26日)
署名場所 伊豆国 下田
発効 1857年6月17日(第2条以外)、1858年7月4日(第2条)[1]
現況 失効
失効 1859年7月4日(日米修好通商条約発効)[1]
締約国 日本の旗 日本
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
主な内容 両国貨幣の同種同量交換、アメリカ人の下田・箱館居住権、領事裁判権、総領事の商品直接購入権
関連条約 日米和親条約
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日米追加条約(にちべいついかじょうやく、: Treaty between the United States of America and Empire of Japan[1]、The Convention of Shimoda[2])は、1857年6月17日安政4年5月26日)、初代アメリカ合衆国総領事であるタウンゼント・ハリス下田奉行井上信濃守中村出羽守)との間で結ばれた全9か条の条約。先にマシュー・ペリーが結んだ日米和親条約を修補する目的で結ばれた。別名、下田協定[2]あるいは下田協約

日本側の延引策に加えて、特に居住権、旅行権、為替をめぐって議論白熱し、交渉は10か月にも及んだ[3]

内容[編集]

この条約では、長崎に新たに港を開けることやアメリカ人の下田・箱館(後の函館)居留を許可すること、またアメリカと日本の貨幣を同種同重量(金は金、銀は銀)で交換し、日本は6%の改鋳費を徴収することなどが定められた。この条約に書かれた領事裁判権は1858年7月29日(安政5年6月19日)に結んだ日米修好通商条約にも受け継がれた。

条項は以下の通り。

  • アメリカ船に対して肥前国長崎港を開き、当地では船舶の修繕のほか、水・燃料・食料・その他欠乏品が供給される。石炭があればそれも渡す。(第1条)
  • 下田港ならびに箱館港ではアメリカ船が必要とする物品の供給が難しいため、アメリカ人はその二港での滞在が許される。アメリカ政府は副領事を任命し箱館に駐在させてもよい。ただし、この条項は安政5年6月中旬、1858年7月4日から施行する。(第2条)
  • アメリカ人が持ち込んだ貨幣を計算するには日本の貨幣(金1分あるいは銀1分またはそれを表す分銅)をもって、金は金、銀は銀と量りくらべ、確認の後、その合計の6パーセントをアメリカ貨幣の吹替え費用として日本人に渡す。(第3条)
  • アメリカ人に対して法を犯した日本人は日本の法律で日本司法人がこれを裁き、日本人に対して日本で法を犯したアメリカ人はアメリカの法律に基づいてアメリカ総領事がこれを裁く。(第4条)
  • 下田・箱館・長崎の港でアメリカ船の修繕または欠乏品の買入れをしたときは、その代金を金あるいは銀の貨幣で支払う。金銀共に所持していないときは品物で弁償する。(第5条)
  • 日本政府は合衆国総領事が七の限界を越えて通行する権利を認める。ただし、その権利の行使は船が難破するなどの切迫した場合を除いて延期することが望ましく、合衆国総領事もこれに同意した。(第6条)
  • 総領事またはその同居人のための購入品であれば、日本の役人を介さず、直接商人に代金を支払って買うことができる。この用件のため、総領事には日本銀貨または銅貨が提供される。(第7条)
  • 下田奉行は英語の知識がなく、合衆国総領事は日本語の知識がない。ゆえに条文の真義はオランダ語訳版にあるものとする。(第8条)
  • 前掲の条項のうち、第2条を除いて条約調印の日より発効する。(第9条)

なお、この協定は日米修好通商条約によって内容が上書きされたため、通商条約の発効と同時に廃棄された。

アメリカ国内[編集]

アメリカ国内での締結手続経緯は、以下の通りである[4]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 日本学術振興会『条約目録』1936年
  2. ^ a b 宮永孝『開国の使者』 雄松堂出版、1986年、102頁。
  3. ^ 宮永孝『開国の使者』 雄松堂出版、1986年、103-105頁。
  4. ^ United States Treaties and International Agreements: 1776-1949 Volume9 pp.359-361” (PDF). アメリカ議会図書館 (1972年3月). 2022年11月18日閲覧。

外部リンク[編集]