易経

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易経』(えききょう、正字体:易經、拼音: Yì Jīng)は、古代中国の書物。著者は伏羲とされている[注釈 1]

の時代から蓄積された卜辞(ぼくじ)を集大成したものとして易経は成立した。 『卜』(ぼく)が動物である亀の甲羅や牛や鹿の肩甲骨に入ったヒビの形から占うものであるのに対して、『筮』(めどき/めどぎ)は植物である『蓍[注釈 2]』(シ、めどぎ)の茎の本数を用いた占いである。 現代では、哲学書としての易経と占術のテキストとしての易経が、一部重なりながらも別のものとなっている。中心思想は、陰陽二つの元素の対立と統合により、森羅万象の変化法則を説く。

易経は儒家である荀子の学派によって儒家の経典として取り込まれた。 「玄学」の立場からは『老子道徳経』・『荘子』と合わせて「三玄(の書)」と呼ばれる。 また、中国では『黄帝内經』・『山海經』と合わせて「上古三大奇書」とも呼ぶ。

概要[編集]

儒教の基本書籍である五経の筆頭に挙げられる経典であり、『周易』(しゅうえき、Zhōu Yì)または単に『』(えき)とも呼ぶ。通常は、基本の「経」の部分である『周易』に儒教的な解釈による附文(十翼または伝)を付け加えたものを一つの書とすることが多く、一般に『易経』という場合それを指すことが多いが、本来的には『易経』はの卦画・卦辞・爻辞部分の上下二篇のみを指す。

三易の一つであり、太古よりの占いの知恵を体系・組織化し、深遠な宇宙観にまで昇華させている。今日行われる易占法の原典であるが、古代における占いは現代にしばしば見られる軽さとは大いに趣きを異にし、共同体の存亡に関わる極めて重要かつ真剣な課題の解決法であり、占師は政治の舞台で命がけの責任を背負わされることもあった。

古来、占いを重視する象数易と哲理を重視する義理易があり、象数易は漢代に、義理易は宋代に流行した。

史記』日者列伝で長安の東市で売卜をしていた楚人司馬季主と博士賈誼との議論において、易は「先王・聖人の道術」であるという記述がある。[1]

書名[編集]

この書物の本来の書名は『易』または『周易』である。『易経』というのは以降の名称で、儒教の経書に挙げられたためにこう呼ばれる。

なぜ『易』という名なのか、古来から様々な説が唱えられてきた。ただし、「易」という語がもっぱら「変化」を意味し、また占いというもの自体が過去・現在・未来へと変化流転していくものを捉えようとするものであることから、何らかの点で “変化” と関連すると考える人が多い。

有名なものに「易」という字が蜥蜴に由来するという “蜥蜴説” があり、蜥蜴が肌の色を変化させることに由来するという。

また、「易」の字が「日」と「月」から構成されるとする “日月説” があり、太陽太陰)で陰陽を代表させているとする説もあり、太陽の運行から運命を読みとる占星術に由来すると考える人もいる。

伝統的な儒教の考えでは、『周易正義』が引く『易緯乾鑿度』の「易は一名にして三義を含む」という「変易」「不易」「易簡(簡易)」(かわる、かわらぬ、たやすい)の “三易説” を採っている。

また、『周易』の「周」は中国王朝の周代の易の意であると言われることが多いが、鄭玄などは「周」は「あまねく」の意味であると解している。しかし、『史記』日者列伝には、「周代において最も盛んであった」という記述がある。[1]

『易経』の構成[編集]

現行『易経』は、本体部分とも言うべき(1)「経」(狭義の「易経」。「上経」と「下経」に分かれる)と、これを注釈・解説する10部の(2)「」(「易伝」または「十翼(じゅうよく)」ともいう)からなる。

[編集]

「経」には、六十四卦のそれぞれについて、図像である卦画像と、卦の全体的な意味について記述する卦辞と、さらに卦を構成している6本の位(こうい)の意味を説明する384の爻辞(乾・坤にのみある「用九」「用六」を加えて数えるときは386)とが、整理され箇条書きに収められ、上経(30卦を収録)・下経(34卦を収録)の2巻に分かれる。

伝(十翼、易伝)[編集]

「伝」(「易伝」、「十翼」)は、「彖伝(たんでん)上・下」、「象伝(しょうでん)上・下」、「繋辞伝(けいじでん)上・下」、「文言伝(ぶんげんでん)」、「説卦伝(せっかでん)」、「序卦伝(じょかでん)」、「雑卦伝(ざっかでん)」の計10部である。これらの中で繋辞伝には小成八卦の記述はあるものの、大成卦の解説では大成卦を小成八卦の組み合わせとしては解しておらず、繋辞伝が最初に作られた「伝」と推測される。

  • 「彖伝上・下」には、「周易上・下経」それぞれの卦辞の注釈が収められている。
  • 「象伝上・下」には、各卦の象形の意味についての短い解説と、その爻辞の注釈が収められている。易占家の間では、前者部分を「大象」、後者部分を「爻伝」、というふうに呼称を区別していることがある。
  • 「文言伝」では、六十四卦のうち最も重要かつ基本の位置づけにある二卦である、乾(けん)および坤(こん)について、詳しい訓詁的な解説がなされる。
  • 「繋辞伝上・下」には、易の成り立ち、易の思想、占いの方式、など、『易』に関する包括的な説明が収められている。
  • 「説卦伝」では、大成六十四卦のもととなる小成八卦の概念、森羅万象をこの八種の象に分類するその分類のされ方が、詳説される。
  • 「序卦伝」には、現行の「周易上・下経」での六十四卦の並び方の理由が説明されている。
  • 「雑卦伝」では、占いにあたって卦象を読み解く際の、ちょっとしたヒントが、各卦ごとに短い言葉で述べられる。着目ヒント集である。

1973年、馬王堆漢墓で発見された帛書『周易』写本に「十翼」は無く、付属文書は二三子問・繋辞・易之義・要・繆和・昭力の六篇で構成されていた。

現代[編集]

現代出版されている易経では、一つの卦に対して、卦辞、彖、象、爻辞の順でそれぞれが並べられていることが多く、「経」、「彖」、「象」を一体のものとして扱っている。たとえば「易―中国古典選10」[2]では、一つの卦は、王弼・程頤にならい以下のように編集されている。

  • :(経)卦のシンボルイメージ。伏羲作とされる。
  • 卦辞:(経)卦の名前と説明。文王作とされる。
    • 彖伝:(伝)卦辞の注釈。
    • 大象:(伝)象伝中の卦の説明部分。
  • 爻辞:(経)初爻の説明。周公作とされる。
    • 小象:(伝)初爻に関する、象伝中の爻の説明部分。

(のこり5爻の爻辞・小象)

  • 文言伝:(伝)乾坤の卦のみ。

易の成立と展開[編集]

八卦の生成

易占の成立[編集]

易経の繋辞上伝には「易は聖人の著作である」ということが書かれており、儒家によって後に伝説が作られた。古来の伝承によれば、易の成立は以下のようなものであったという。 まず伏羲八卦を作り、さらにそれを重ねて六十四卦とした(一説に神農が重卦したとも)。次に文王が卦辞を作り、周公が爻辞を作った(一説に爻辞も文王の作とする)。そして、孔子が「伝」を書いて商瞿(しょうく)へと伝え、代の田何(でんか)に至ったものとされる。この『易』作成に関わる伏羲・文王(周公)・孔子を「三聖」という(文王と周公を分ける場合でも親子なので一人として数える)。孔子が晩年易を好んで伝(注釈、いわゆる「十翼」といわれる彖伝・繋辞伝・象伝・説卦伝・文言伝)を書いたというのは特に有名であり、『史記』孔子世家には「孔子は晩年易を愛読し、彖・繋・象・説卦・文言を書いた。易を読んで竹簡のとじひもが三度も切れてしまった」と書かれており[3]、「韋編三絶」の故事として名高い。 このような伝説は儒家が『易』を聖人の作った経典としてゆく過程で形成された。伏羲画卦は「易伝」の繋辞下伝の記述に基づいており、庖犧(伏羲)が天地自然の造型を観察して卦を作り、神明の徳に通じ、万物の姿を類型化したとあり、以後、庖犧-神農-黄帝--と続く聖人たちが卦にもとづき人間社会の文明制度を創造したとある。

しかしながら、この伝説は古くから疑問視されていた。易の文言が伝承と相違している点が多いためである。欧陽脩が、「十翼は複数の人間の著作物だろう」と疑問を呈したのに始まり、宋代以降易経の成立に関する研究が進めば進むほど、上記の伝説が信じがたいことが明らかになった。朱熹は「六十四卦はただ上経だけが整った形になっているが、下経は乱雑な記述になっており、繋辞上伝は整っているが繋辞下伝は彖伝・象伝と整合性が取れない」といい、「彖伝・象伝はよく出来ているので聖人の著作だろう」と考えたが、他の伝は聖人の著作ではないと考えていたのではないか、と内藤湖南は論文『易疑』で述べている。内藤は更に「商瞿以來の傳授が信ぜられぬことの外、即ち田何が始めて竹帛に著はしたといふことは、恐らく事實とするを得べく、少くとも其時までは易の内容にも變化の起り得ることが容易なものと考へられるのである。それ故筮の起原は或は遠き殷代の巫に在りとし、禮運に孔子が殷道を觀んと欲して宋に之て坤乾を得たりとあるのが、多少の據りどころがあるものとしても、それが今日の周易になるには、絶えず變化し、而かも文化の急激に發達した戰國時代に於て、最も多く變化を受けたものと考ふべきではあるまいか。」(『易疑』)と述べ、易が聖人の著作であることを否定した。後には孔子と易との関わりまでも疑問視されたが、これは高田眞治白川静らによって逆に否定された。現代では以下のように考えられている。

古代中国、代には、亀甲を焼き、そこに現れる亀裂の形(卜兆)で、国家的な行事の吉凶を占う「亀卜」が、神事として盛んに行われていたことが、殷墟における多量の甲骨文の発見などにより知られている。西周以降の文の、「蓍亀」や「亀策」(策は筮竹)などの語に見られるように、その後、亀卜と筮占が併用された時代があったらしい。両者の比較については、『春秋左氏伝』僖公4年の記に、亀卜では不吉、占筮では吉と、結果が違ったことについて卜人が、「筮は短にして卜(亀卜)は長なり。卜に従うに如かず(占筮は短期の視点から示し、亀卜は長期の視点から示します。亀卜に従うほうがよいでしょう)」と述べた、という記事が見られる。『春秋左氏伝』には亀卜や占筮に関するエピソードが多く存在するが、それらの記事では、(亀卜の)卜兆と、(占筮の)卦、また、卜兆の形につけられた占いの言葉である繇辞(ちゅうじ)と、卦爻につけられた占いの言葉である卦辞・爻辞が、それぞれ対比的な関係を見せている。こうして占われた結果が朝廷に蓄積され、これが周易のもとになったと考えられている。周易のもとになった書物が各地に普及すると、難解な占いの文の解釈書が必要になり、戦国末期から前漢の初期に彖伝・象伝以外の「十翼」が成立したのであろう…というのが丸山松幸による現在の通説のまとめである。

また周代の理想的な官制を描いた『周礼』の春官宗伯には大卜という官吏が三兆・三易・三夢の法を司ったとされ、三兆(玉兆・瓦兆・原兆)すなわち亀卜に関しては「その経兆の体は皆な百有二十、その頌は皆な千有二百」とあり、後漢鄭玄は卜兆が120体に分類され、1体ごとに10ずつの繇があったと解している。一方、三易(連山・帰蔵・周易)すなわち占筮に関しては「その経卦は皆な八、その別は皆な六十有四」と述べ、卦に八卦があり、それを2つ組み合わせた六十四卦の卦辞がある『易』に対応した記述となっている。なお三易の「連山」「帰蔵」を鄭玄はそれぞれ夏代・殷代の易と解している。「連山」「帰蔵」は後世に伝わっていない。

1993年郭店一号墓より竹簡に記された『易』が発見された。これは現存最古の秦代の『易』の写本である。

易の注釈史[編集]

『易』にはこれまでさまざまな解釈が行われてきたが、大別すると象数易(しょうすうえき)と義理易(ぎりえき)に分けられる。「象数易」とはの象形や易の数理から天地自然の法則を読み解こうとする立場であり、「義理易」とは経文から聖人が人々に示そうとした義理(倫理哲学)を明らかにしようという立場である。

漢代には天象と人事が影響し、君主の行動が天に影響して災異が起こるとする天人相関説があり、これにもとづいて易の象数から未来に起こる災異を予測する神秘主義的な象数易(漢代の易学)が隆盛した。ここで『易』はもっぱら政治に用いられ、預言書的な性格をもった。特に孟喜京房らは戦国時代以来の五行と呼ばれる循環思想を取り込み、十二消息卦など天文と易の象数とを結合させた卦気説と呼ばれる理論体系を構築した。前漢末の劉歆はこのような象数に基づく律暦思想の影響下のもと漢朝の官暦太初暦を補正した三統暦を作っており、また劉歆から始まる古文学で『易』は五経のトップとされた。

一方、王弼は卦象の解釈に拘泥する「漢易」のあり方に反対し、経文が語ろうとしている真意をくみ取ろうとする「義理易」を打ち立てた。彼の注釈では『易』をもっぱら人事を取り扱うものとし、老荘思想に基づきつつ、さまざまな人間関係のなかにおいて個人が取るべき処世の知恵を見いだそうとした。彼の『易注』は南朝において学官に立てられ、唐代には『五経正義』の一つとして『周易正義』が作られた。

こうして王弼注が国家権威として認定されてゆくなかで「漢易」の系譜は途絶えた。そのなかにあって李鼎祚が漢易の諸注を集めて『周易集解』を残し、後代に漢易の一端を伝えている。

宋代になると、従来のならびに漢唐訓詁学の諸注を否定する新しい経学が興った。易でもさまざまな注釈書が作られたが、「義理易」において王弼注と双璧と称される程頤の『程氏易伝』がある。また「象数易」では数理で易卦の生成原理を解こうとする『皇極経世書』や太極陰陽五行による周敦頤の『通書』、張載の『正蒙』などがある。ここで太極図先天図河図洛書といった図像をが用いられ、図書先天の学という易図学が興った。南宋になると、義理易と象数易を統合しようとする動きが現れ、朱震の『漢上易伝』、朱熹の『周易本義』がある。

周敦頤から二程子を経て後の朱子学に連なる儒教の形而上学的基礎は、『易経』に求められる。

主要概念[編集]

八卦[編集]

筮竹を操作した結果、得られる記号であるは6本の「」と呼ばれる横棒(─か- -の2種類がある)によって構成されているが、これは3爻ずつのものが上下に2つ重ねて作られているとされる。この3爻の組み合わせによってできる8つの基本図像は「八卦」と呼ばれる。

『易経』は従来、占いの書であるが、易伝においては卦の象形が天地自然に由来するとされ、社会事象にまで適用された。八卦の象はさまざまな事物・事象を表すが、特に説卦伝において整理して示されており、自然現象に配当して、乾=天、坤=地、震=雷、巽=風、坎=水、離=火、艮=山、兌=沢としたり(説卦伝3)、人間社会(家族成員)に類推して乾=父、坤=母、震=長男、巽=長女、坎=中男、離=中女、艮=少男、兌=少女としたり(説卦伝10)した。一方、爻については陰陽思想により─を陽、--を陰とし、万物の相反する性質について説明した。このように戦国時代以降、儒家は陰陽思想や黄老思想を取り入れつつ天地万物の生成変化を説明する易伝を作成することで『易』の経典としての位置を確立させた。

なお八卦の順序には繋辞上伝の生成論(太極-両儀-四象-八卦)による「乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤」と説卦伝5の生成論による「乾・坤・震・巽・坎・離・艮・兌」の2通りがある。前者を伏羲先天八卦、後者を文王後天八卦と呼び、前者によって八卦を配置した図を「先天図」、後者によるものを「後天図」という。しかし、実際は11世紀の北宋邵雍の著作『皇極経世書中国語版』において初めて伏羲先天八卦、文王後天八卦として図と結びつけられたのであり、先天諸図は邵雍の創作と推測されている。

六十四卦[編集]

「経」における六十四卦の並び方がどのように決定されたのかは現代では不明である。また六十四卦の卦辞や爻辞を調べる場合、「経」における六十四卦の並べ方そのままでは不便であり、六十四卦を上下にわけることで、インデックスとなる小成八卦の組み合わせによって六十四卦が整理された。その後、小成八卦自体が世界の構成要素の象徴となって、様々な意味が付与されることとなった。

具体例をしめすと、乾は以下のとおりである。

乾、元亨。利貞。初九、潜竜勿用。九二、…。九三、…。九四、…。九五、…。上九、…。用九、…。

陰陽を示す横線(爻)が6本が重ねられた卦のシンボルがある。次に卦辞が続き卦の名前(乾)と卦全体の内容を様々な象徴的な言葉で説明する。 次に初九、九二、九三、九四、九五、上九(、用九)で始まる爻辞があり、シンボル中の各爻について説明する。6本線(爻)の位置を下から上に、初二三四五上という語で表し、九は陽()を表している。(陰()は六で表す。) 爻辞は卦辞と似ているが、初から上へと状況が遷移する変化をとらえた説明がされる。象徴的なストーリーと一貫した主題で説明されることも多い。乾では、陽の象徴である龍が地中から天に登るプロセスを描き判断を加えている。

占筮の定義[編集]

一般に「占筮」といえば、『易経』に基づいて筮竹を用いて占をすることを言う(太古には「蓍」という植物の茎を乾燥させたものを使っていた。「蓍」とはキク科多年草であるノコギリソウのこと。なお、日本語で「蓍」(和名「メドギ」)は、ノコギリソウではなくてメドハギという豆科の別の植物)。この占においては、50本の筮竹を操作してを選び定め、それによって吉凶その他を占う。「卜筮」と同義。

占法[編集]

筮竹を使って占う男(1907年、日本、ハーバート・ポンティング撮影)

『易』の経文には占法に関する記述がなく、繋辞上伝に簡単に記述されているのみである。繋辞上伝をもとに孔穎達周易正義』や南宋朱熹周易本義』筮儀[4]によって復元の試みがなされ、現在の占いはもっぱら朱熹に依っている。

易で占うために卦を選ぶことを立卦といい、筮竹をつかう、正式な本筮法、煩雑を避けた中筮法、略筮法(三変筮法)や、コイン(擲銭法)、サイコロなどを利用する簡略化した方法も用いられる。これらによって占いを企図した時点の偶然で卦が選択され、大別すると選ばれた1爻を6回重ねる方法(本筮法、中筮法など)と、選ばれた八卦を2回重ねる方法(略筮法など)がある。さらに各方法には変爻(極まって陰陽が反転しようとしている爻)の有無や位置を選ぶ操作があり状況変化を表現する。このとき選ばれた元の卦を本卦、変化した卦を之卦という。こうして卦が得られた後、卦や変爻について易経の判断を参照し当面する課題や状態をみて解釈し占断をおこなう[5]

本筮法[編集]

朱熹の本筮法を筮竹あるいは蓍の使用に限って説明すれば以下のようである。

繋辞上伝には「四営して易を成し、十有八変して卦を成す」とあり、これを四つの営みによって一変ができ、三変で1爻が得られ、それを6回繰り返した18変で1卦が得られるとした。さらに4営は伝文にある「分かちて二と為し以て両に象る」を第1営、「一を掛け以て三に象る」を第2営、「これを(かぞ)うるに四を以てし以て四時に象る」を第3営、「奇をに帰し以て閏に象る(「奇」は残余、「」は指の間と解釈される)」を第4営とした。

  • 第1変
    • 50本の筮竹の中から1本を取り、筮筒に戻す。この1本は使用せず、49本を用いる。この1本は太極に象る。
    • 第1営 - 残りの筮竹を無心で左手と右手で2つに分ける。これはに象る。
    • 第2営 - 右手の中から1本を抜き、左手の小指と薬指の間に挟む。この1本はに象り、あわせて天地人の三才に象る。
    • 第3営(1) - 左手分(天策)の本数を右手で4本ずつ数える。これは四時に象る。
    • 第4営(1) - その余り(割り切れる場合には4本)を薬指と中指の間に挟む。これは閏月に象る。
    • 第3営(2) - 右手分(地策)の本数を左手で4本ずつ数える。
    • 第4営(2) - 残った余り(割り切れる場合は4本)を中指と人差し指の間に挟む。第2営からここまでの5操作のうちに閏月を象る残余を挟む操作が2度あることは五歳二閏(5年に約2回閏月があること)に象る。
    • 左手の指の間に挟みこんだ残余の筮竹の総和を求める。必ず9本か5本になる。(なお、第1変では後述のように陰陽に大きな偏りが出るため占いに使うのは適当ではない。偏りを避けるため、占筮には簡略化した中筮法・略筮法・擲銭法を使うべきである。ただし、占いの結果が均等であるべきとの決まりがある訳ではない。結果の偏りも含めて、それが本来の筮法であると解釈する事も可能である。)
  • 第2変 - 49本から第1変の結果の9本か5本を抜いた44本または40本の筮竹で四営を行う。すると左手の指に挟みこまれた筮竹の総和は8本か4本になる。
  • 第3変 - 第2変の結果の8本か4本を抜いた40本か、36本か、32本の筮竹で四営を行う。すると左手の指に挟みこまれた筮竹の総和は8本か4本になる。
  • - ここで第1変・第2変・第3変の残数により初爻が決まり、それを記録する作業が行われる。これは筆で板に4種類の記号を書き込むが、卦木(算木)で表すこともできる。残余の数は9本か5本、8本か4本であり、これを多いか少ないかによって区別すると、3変とも多い「三多」、2変が少なく1変が多い「二少一多」、2変が多く1変が少ない「二多一少」、3変とも少ない「三少」となる。これらの総和をそれぞれ最初の49本から引くと数えた筮竹の総数に当たるが、これは四時の4と陰陽の数を相乗じることによって得られるとされる。すなわち老陽の9、少陰の8、少陽の7、老陰の6である。ここで導かれた陰陽の属性を表す記号(重・折・単・交)を初爻の位置に記録する。ここで少陽・老陽は陽爻であるが、少陽が不変爻であるのに対し、老陽は陰への変化の可能性をもった変爻である。また少陰・老陰は陰爻であるが、少陰が不変爻であるのに対し、老陰は陽への変化の可能性をもった変爻である。
筮竹
残余の多少 数の意味 属性 記号
三少 5+4+4=13
49-13=36=4*9
老陽 9
(重)
二少一多 5+4+8または5+8+4または9+4+4=17
49-17=32=4*8
少陰 8 - -
(折)
二多一少 9+4+8または9+8+4または5+8+8=21
49-21=28=4*7
少陽 7
(単)
三多 9+8+8=25
49-25=24=4*6
老陰 6 ×
(交)
  • 第4変〜第18変 - 上記と同様の操作を続け、初爻の上に下から上への順に第2爻から上爻までを記録し、6爻1が定まる。
  • 占断 - 以上の操作で定まったを「本卦(ほんか)」といい、さらに本卦の変爻(老陰・老陽)を相対する属性に変化させた卦を求め、これを「之卦(しか)」という。ここではじめて『易経』による占断がなされる。占いの結果は本卦と之卦の卦辞を踏まえたうえで、本卦の変爻の爻辞に求められる。なお2つ以上の変爻がある場合には本卦の卦辞によれ(『春秋左氏伝』)あるいは2変爻であれば本卦のその2爻辞(上位を主とする)により、3爻辞であれば本卦と之卦の各卦辞によれ(朱熹『易学啓蒙』)とされる。
    例えば、左手の指に挟んだ残数が第3変までで9・8・4、第6変までで9・4・8、第9変までで5・8・8、第12変までで9・8・8、第15変までで9・4・4、第18変までで5・8・4であったとすると、¦¦×||| と記録され、本卦は¦¦¦|||、之卦は¦¦||||大壮となる。これを「泰の大壮に之(ゆ)く」といい、占断は泰・大壮の卦辞を参考にしつつ泰卦の変爻、六四の爻辞によって行われる。

中筮法[編集]

上記本筮法は18変を必要とし、しかも第1変の陰陽に偏りがあるため、偏りの無い筮法として、6変筮法である中筮法がある。これは第1変第3営において天策を8本ずつ数えその残余(割り切れる場合は0本)に人策の1本を加えた1〜8本によって次のように初爻を決定する。

  • 1本ならば乾  → 老陽(□)
  • 2本ならば兌  → 少陰(- -)
  • 3本ならば離  → 少陰(- -)
  • 4本ならば震  → 少陽(─)
  • 5本ならば巽  → 少陰(- -)
  • 6本ならば坎  → 少陽(─)
  • 7本ならば艮  → 少陽(─)
  • 8本ならば坤  → 老陰(×)

同様のことを6回繰り返して本卦を得る。

略筮法[編集]

さらに簡略化した3変の略筮法もある。これは中筮法の第1変の結果をそのまま内卦(初爻から第3爻)とし、同様に第2変で外卦(第4爻から第6爻)を求めて本卦を得た後、第3変は6本ずつ数えて人策を加えた残余の1〜6本によって変爻の位置(1→初爻〜6→第6爻)を決定するという方法である。

その他[編集]

また筮竹を用いずに卦を立てる占法もあり、3枚の硬貨を同時に投げて、3枚裏を老陽(□)、2枚裏・1枚表を少陰(- -)、2枚表・1枚裏を少陽(─)、3枚表を老陰(×)とする擲銭法が賈公彦儀礼正義』に記されている。これは、硬貨の表裏で本筮法の残余の多少を表すとするものであり、他に、硬貨の表裏を以て中筮法の乾兌離震巽坎艮坤を表すとして四象を決める方法や表の枚数の多少をそのまま四象に反映する方法、6枚の硬貨の表裏をそのまま陰陽として並べて本卦にする方法もある。

数学との関連性[編集]

易卦は二進法で数を表していると解釈でき、次のように数を当てはめることができる。右側は二進法の表示であり、易卦と全く同じ並びになることが理解できる。

  •  0   000
  •  1   001
  •  2   010
  •  3   011
  •  4   100
  •  5   101
  •  6   110
  •  7   111

本筮法の第1変においては49本の筮竹を天策(x本)と地策(49-x本)に分け、地策から1本を人策として分ける。よって地策は48-x本となる。第4営後に9本残るのは天策地策ともに4本ずつ残る場合のみであり、これはxが4の倍数の時に限られる。第2変、第3変では4本残る(天地人1−2−1または2−1−1)か8本残る(同3−4−1または4−3−1)かは半々となり偏りはない。(なお、50本から太極として1本除いた49本を使うのではなく、最初に7×7=49本から太極として1本除いた48本を使うとするなら第1変の偏りはなくなる。)

参考文献[編集]

現代[編集]

近代[編集]

古代から近世[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ あくまで伝説である。
  2. ^ ノコギリソウの一種であるメドキ。

出典[編集]

  1. ^ a b 野口定男 (1971,1.6). 中国古典文学大系 史記下. 中国古典文学大系. 平凡社 
  2. ^ 本田済『易』朝日新聞社、1997年。ISBN 978-4022590107 
  3. ^ 『史記』孔子世家 - 中國哲學書電子化計劃
  4. ^ 原本周易本義巻末下 Chinese Text Project
  5. ^ 「易の話」 ISBN 4061596160

関連項目[編集]

外部リンク[編集]