田代喜久雄

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たしろ きくお
田代 喜久雄
生誕 (1917-04-22) 1917年4月22日
熊本県
死没 (1993-05-14) 1993年5月14日(76歳没)
死因 肝不全
国籍 日本の旗 日本
出身校 早稲田大学第一文学部仏文学科
職業 新聞記者実業家
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田代 喜久雄(たしろ きくお、1917年〈大正6年〉4月22日 - 1993年〈平成5年〉5月14日)は、日本新聞記者実業家朝日新聞社専務を経て、全国朝日放送(テレビ朝日)社長を務めた。熊本県出身。

来歴・人物[編集]

早稲田大学第一文学部仏文学科卒業。1940年(昭和15年)満州経済社を経て、朝日新聞社に入社[1]。翌年9月応召され、南方で左肩貫通銃創を負い、内地に移送。回復後は鹿児島本土決戦に備えていて、陸軍中尉で敗戦を迎えた[2]。45年晩秋、「ただいま、帰りました」と兵隊そのままの挨拶をして、編集局に復帰した[3]

名社会部長[編集]

1954年(昭和29年)に社会部次長に就き、読解力の正しさ、判断力の正しさ、決断の速さ、よく部員の話に耳を傾けることで、このデスクは一躍人気を集め[4]、59年6月、社会部長に任じられた[5]60年安保という戦後節目の季節が近づく中、「田代でないと安保は乗り切れない」と、時の編集局長広岡知男(のち社長)が考えての登用だった[5]。部長在任は5年近くに及び、田代は紙面の近代化を図った[6]。新設された第2社会面を活用して、扱う分野を硬派の領域にまで押し広げた[6]。社会現象を表面的、細切れ的に追うのではなく、巨視的、重点的に掘り下げるべく、部下を𠮟咤した[6]。解説雑報を導入し、長尺のルポを載せた。そのために、これはという記者を投入して、思い切って個性的な記事を書かせた[6]。疋田桂一郎(のち天声人語子)や本多勝一の多用はその表れである[6]。当時の部下には上前淳一郎もいた[7]

1962年(昭和37年)3月、読者からの投書で欧州で起きた「サリドマイド薬害」のことを知った田代は、特派員を通じて欧州の実態をつかみ、厚生省の対応を迫った上で記事にさせた[7]。投書から2ヵ月たった5月17日付夕刊社会面に「自主的に出荷停止、イソミンとプロバンM」の見出しが出た[7]。これがサリドマイド薬害の初報で、その夜から社会部には読者の問い合わせ、製薬会社の抗議、反論、訂正要求が殺到した[7]。翌日、大日本製薬(現:住友ファーマ)の宮武徳次郎社長が幹部数人を従え乗り込んできて、激論数時間やりあうが[7]、「あすはこういう記事が載ります。反論があれば用意しておいて下さい」という記事掲載の予告に始まり、宮武と田代が会合するようになり、さらに宮武が「どないしたらええんやろかナ」と悩みは相談するまでになっていく[8]

名社会部長と称されたが、田代はその反面でえこひいきし、取り巻きを作った。「殺してやりたい」といった部員もいたというから穏やかではない[8]

東京本社ビル新築計画をまとめる[編集]

編集局次長、編集審議室幹事、西部本社編集局長を経て、1966年(昭和41年)7月東京本社編集局長となる。これは信夫韓一郎の強い推挙があったといわれる[8]。69年3月取締役・東京本社編集局長、12月常務・編集担当。

1971年(昭和46年)12月常務・東京本社代表・総合企画室担当、74年6月専務・東京本社代表・総合企画室担当、77年12月専務・東京本社代表・電子計算機担当。この間、東京本社の有楽町から築地へ移転計画をまとめ[9]、80年4月に東京本社ビルが竣工に漕ぎ着ける。

村山騒動では反村山家の急先鋒で鳴らした一方、出世の階段を上り詰め、社長の椅子を目前にすると村山家懐柔に動くなど、目的のためには手段を選ばない面もあった[10]。結果的に、専務止まりで新聞社の頂点には立てず、テレビに転出する[10]

全国朝日放送社長に[編集]

1981年(昭和56年)6月、全国朝日放送副社長に転じる(83年社長に昇格)。六本木6丁目の老朽化していた本社スタジオの建て替えに際して、森ビルに協力を要請し、計画を進めていたアークヒルズの設計を急遽変更してもらって、再開発期間中の移転先として、アークヒルズ内にテレビスタジオ(テレビ朝日アーク放送センター)を組み込ませる約束を取り付け[11]、このテレビスタジオの土地と建物を、六本木6丁目の敷地の一部と交換し、森ビルと一緒に「六本木六丁目地区第一種市街地再開発事業」(六本木ヒルズ)に進むことで合意する[11]

「おれにはニュースしかわからないから」と言って[12]1985年(昭和60年)10月7日、竣工したアーク放送センターで久米宏をメインキャスターに据え、報道番組としては異例のコメンテーターを配し、メインキャスターがニュースに私見を述べるスタイルの社運をかけた『ニュースステーション』をスタートさせた。その一方で、同月にはアフタヌーンショー で「やらせリンチ事件」が発覚し、視聴者に謝罪するため生出演するが、番組は打ち切りとなった。

1989年(平成元年)6月、代表取締役相談役に退く。なお、田代以降、朝日新聞の社長レースに破れた者がテレビに移るというのは定番コースになる[10]

1993年5月14日、肝不全のため76歳で死去[12]

脚注[編集]

  1. ^ 河谷 2012, p. 234.
  2. ^ 河谷 2012, p. 237.
  3. ^ 河谷 2012, p. 236 - 237.
  4. ^ 河谷 2012, p. 239 - 240.
  5. ^ a b 河谷 2012, p. 240.
  6. ^ a b c d e 河谷 2012, p. 241.
  7. ^ a b c d e 河谷 2012, p. 242.
  8. ^ a b c 河谷 2012, p. 243.
  9. ^ 森 2009, p. 184 - 185.
  10. ^ a b c 中川 2019, p. 169.
  11. ^ a b 森 2009, p. 185.
  12. ^ a b 河谷 2012, p. 245.

参考文献[編集]

  • 森稔『ヒルズ 挑戦する都市』朝日新書、2009年10月。ISBN 4022733004 
  • 河谷史夫『新聞記者の流儀 戦後24人の名物記者たち』朝日文庫、2012年7月。ISBN 978-4022617293 
  • 中川一徳『二重らせん 欲望と喧噪のメディア』講談社、2019年12月。ISBN 978-4065180877